超現代語訳
川上村の吉野林業を学ぶ
これからの時代に活かせることを、
川上村と吉野林業の歴史に学びます。
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2020.4.26
■「川上村史 通史編」に学ぶ (26) 土倉庄三郎の山林経営
土倉庄三郎は明治20年(1887年)頃から小川郷 (現在の奈良県東吉野村の一部)、国栖郷 (奈良県吉野町)や多武峰 (奈良県桜井市)、宗檜郷 (現在の奈良県五條市西吉野町の一部)、そして三重県尾鷲付近など9000町歩 (2700万坪、東京ドーム約1800個分)に植林しています。
翌年には群馬県伊香保の造林に精力を傾けます。この地は共有林野であったことなどから、反対も強く計画は縮小されるのですが、土倉式造林法として『密植』を行い模範的な植林は注目を集めました。さらには奈良県川上村の人々を派遣して経営にも当たらせていますが、成功が認められるまでは長い年月を要しています。
明治32年(1899年)になると、滋賀県伊香郡西浅井村沓掛で200町歩の造林に着手します。5年と5万円(現代の価値で約5億円)を投じて、杉桧を交えた『密植』を行いました。今もこの山を「土倉山」と呼び県有林となっています。
同時期に湖北 塩津の植林も行っています。北陸線木之本駅から西8㎞のあたりで、こちらも約200町歩を5年間掛けて植林していますが、降雪で痛めつけられ5度に渡って補植したところもあったようです。
参照:「川上村史 通史編」歴史編第十二章 土倉庄三郎抄伝
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時代背景もありますが、庄三郎は常に国家の為として各地で大規模な山林経営を行ったようです。
林業だけではありませんが、いつであろうと強力なリーダーシップが求められています。